「この一杯は、お詫びの気持ちってことで」そう言って、朱欒希美は先にグラスの酒を一気に飲み干した。「兄さん、お姉さん、心が広いですから、私なんかのこと気にしないでよね」朱欒希美の社交辞令は完璧で、その所作には一片の隙もなかった。三井鈴は深く考えることもなく、「大丈夫、気にしないで」と微笑んだ。二人がその場を離れると。朱欒希美はもはや堪えきれず、震える手を無理に抑えながら、平然を装って席に戻った。慌てて酒を注ぎ、勢いよく口に流し込んだ。彼女は理解していた。この行動が何を意味するかも、それを選んだ以上もう後戻りできないことも。その頃、田中仁は三井鈴の肩に腕をまわし、しっかりと抱き寄せていた。三井鈴は驚いて「どうしたの?」と尋ねた。田中仁が彼女に身を寄せ、耳元で何かを囁くと、三井鈴の表情が一変した。「それ、本当なの?」田中仁は答えずに体を動かし、背後の視線を遮るようにして、そっと三井鈴のグラスと自分のグラスをすり替えた。「大丈夫、私がいるから」その一言で三井鈴は少し安心したが、熱を帯びた視線がずっと自分たちに注がれているのを感じ取っていた。二人は目を合わせ、何事もなかったように振る舞い続けた。朱欒希美は我に返り、ふたたび視線を二人に向けた。そして、三井鈴が無防備にグラスの飲み物を口にする様子を、はっきりと目にしたそのとき。その瞬間。朱欒希美は、左胸の奥がドクンドクンと激しく脈打つのをはっきりと感じた。やった!三井鈴のお腹の子はもう助からない!三日もすれば、胎児は死んでしまう!朱欒希美は、まさか自分が人を死に至らせる側になるなんて。そう思うと、意識が遠のくような感覚に包まれた。そんな彼女の変化を、田中仁は一部始終見逃さずにいた。田中仁は手にしたグラスを見つめながら。心の中で自分の予感が確信へと変わるのを感じていた。彼は表情一つ変えず、そのグラスを赤司冬陽に手渡した。「調べろ。中に何が入ってるか」赤司冬陽は一言も発さず、ただ一つの視線で意図を汲み取り、静かにその飲み物を持って宴会場をあとにした。ちょうどそのとき、ポケットの中で携帯電話が鳴った。田中仁は通話に出た。「田中さん、スイスの方から報告が入りました」その言葉を聞いた瞬間、田中仁の手に自然と力が入った。
「田中仁の側に長年付き従ってたって聞いたけど、今は陸社長の部下なんだってね。ちょっと気になるんだけどさ、アンタどうやって田中兄弟の間をそんな器用に渡り歩いてるの?」セブンが口を開くと、その喋り方に愛甲咲茉は思わず眉をひそめ、無意識に嫌悪の色を浮かべた。「田中さんがそんな喋り方するわけないし」「無関係なことに首突っ込んだりもしない」そのまま釘を刺すように言った。「余計なことしないで、ボロ出さないようにね」セブンはまるで意に介さず、口元に薄い笑みを浮かべた。「田中仁のこと、けっこう知ってるんだな」「それ、あなたが首突っ込む話じゃないから」愛甲咲茉は不機嫌そうに言い返した。今日が大事な日じゃなかったら、彼と同じ空間にいるなんて絶対にごめんだった。「陸社長の指示、忘れないで。あなたはあなたの仕事ちゃんとやりなよ」セブンは眉をひとつ上げただけで、それ以上は何も言わなかった。愛甲咲茉は手首を見て時間を確認すると、「もうすぐ式が始まる。予定通りに動くよ」そう言った。「安心しな、足引っ張ったりしないから」この返しには、まあまあ満足した様子だった。「ちゃんと車の中で待ってな。私から連絡あるまで動かないで」そう言って、愛甲咲茉はシートベルトを外し、車を降りた。たとえ婚約パーティーといえども、三井家と田中家は細部まで手を抜かず、真剣そのものだった。会場のホールの飾り付けだけでも、年末から百人以上のスタッフが準備に取り掛かっていた。ホール中央には、星河のように流れ落ちるクリスタルのシャンデリアが輝き、マーブルの床に映る金の紋様と混ざり合って光の回廊を形作っていた。すでに招待客たちは席についており、今日の主役たちの登場を今か今かと待ちわびていた。三井鈴が田中仁の腕に手を添えて現れた瞬間、フラッシュの光が一斉に集まり、美男美女の二人はひときわ目を引いた。婚約の儀式自体は簡潔だったが、進行するたびに客席からは拍手が起こり、ホール全体に幸福な空気が満ちていた。儀式が終わると、二人は列席者一人一人にお酌をして回った。朱欒希美の視線はずっと三井鈴を追っていた。そしてついに二人が彼女の前までやってきた。朱欒希美は立ち上がり、自らグラスを手に取った。「兄さん、お姉さん、おめでとうございます。愛し合う人たちが結ばれるって素敵
「お父さんを助けられるかどうかは、あなたがどれだけやれるかにかかってるのよ」田中葵のその一言が決定打となり、朱欒希美の中で何かが音を立てて定まった。父を救うためなら、もう他に選べる道は残されていなかった。「おばさん、ご安心ください。やるべきことは、分かっています」田中葵は満足げに微笑んだ。「それでいいわ。私をがっかりさせないでね」……控室の外。田中仁はオーダーメイドのスーツを身にまとい、凛とした佇まいで立っていた。三井助が肩に腕を乗せ、冗談交じりに話しかける。「で、今の気分はどうよ?」田中仁は鏡越しに自分の姿を軽く一瞥する。一睡もしていないはずなのに、今の彼にはまったく疲れが見えなかった。高揚感に満ち、顔色も上々だ。目元がふっと和らぎ、口元に穏やかな笑みが浮かぶ。「まあ、悪くないかな」「何年待ったと思ってる?それで悪くないはないでしょ」三井助はふてくされたように文句を言いつつ、口調を引き締めた。「いいか、うちの鈴ちゃんをよろしく頼むよ。もしちょっとでも不幸にしたら、三井家総出であなたを許さないからな」田中仁は軽く拳を握り、彼の胸元をコツンと叩いた。「それ、何回言ったか、もう耳にタコだよ」その直後、声色がぐっと真剣さを帯びる。「でも安心しろ。あなたにそんな機会は絶対に渡さない」三井助は満足げに眉を上げ、にやりと笑った。「それなら、文句なしだな」扉は少し開いていた。星野結菜と真理子が田中仁の様子を見て目を合わせると、無言のうちに察して控室を出ていった。この瞬間、三井鈴は鏡の前に座り、眉ペンを手にそっと眉を整えていた。鏡に映る完璧なメイクの自分をじっと見つめながら、何を考えているのか、ふいに口元が緩み、こっそりと微笑みがこぼれた。「なに、そんなに嬉しそうにして」鏡の中に突然現れた男の姿に、三井鈴は小さく悲鳴をあげるほど驚いた。頬が一気に熱を帯びる。まるで見られたくないところを見られたような気恥ずかしさ。彼女は慌てて振り返り、驚いたように問いかけた。「いつから、そこにいたの?」「君がにやにやしてた時」そう言いながら、彼は自然に彼女の手を取り、指を絡める。二人の鼓動が、少しだけ速くなる。田中仁は鏡越しに三井鈴の瞳を見つめ、真剣な口調で言った。「鈴ちゃん、今日の君は本当に綺麗だ!」三井鈴
「麗、何なの?あんなのまで呼んでるの」斉藤沙也加は顔をしかめ、目の前で手を扇ぐようにして、不快感を隠そうともしなかった。「誰かと思えば!最近は三流の愛人まで堂々と表に出てくる時代なのね」その言葉に、周囲からくすくすと笑い声が漏れた。田中葵の表情が一瞬で険しくなったが、口を開くことはしなかった。彼女は斉藤沙也加のことをよく知っていた。菅原麗の親友で、社交界でも名の知れた存在。気が強く、歯に衣着せぬ物言いで有名だった。まして、その後ろ盾となる家柄を考えれば、敵に回すにはあまりに危険すぎる相手だった。斉藤沙也加は鼻で笑い、菅原麗の手からご祝儀袋を奪うように取り上げると、それを田中葵の腕元に無造作に投げ返した。「私たちもね、誰からでも物を受け取るわけじゃないの。あんたの差し出すものなんて!穢れてて、とてもじゃないけど触れたくないわ!」「あなたっ!」田中葵は怒りに震えながらも、言葉を飲み込むしかなかった。腰に手を添え、動揺を抑えるように立っていたその姿を見て、斉藤沙也加は一歩下がってみせ、大げさに驚いたように言った。「なに?転びでもしたいの?その手には乗らないわよ、私は」歯ぎしりする勢いの田中葵だったが、それでも堪えた。「斉藤さん、少しは言葉を慎んでいただけませんか」だが斉藤沙也加は一顧だにせず、菅原麗の腕を軽く取ると声を張った。「麗、行きましょ。今日は仁の大切な日よ。こんな人に縁起を潰されてたまるもんか」ふたりは目を合わせた。菅原麗の眼差しには、微かに不安の色が浮かんでいた。こんな場所で田中葵に恥をかかせれば、あとで田中陽大に告げ口される可能性は十分にある。そうなれば、自分の立場が悪くなるかもしれない。その思惑を読んだかのように、斉藤沙也加は声を潜めてささやいた。「彼はあなたの顔なんてもう気にしてないのよ。なのに、なんであなたが配慮する必要があるの。安心して!今日のことは私が責任取る。あの田中陽大が来たって、愛人を好き放題させるなんて許さないわ」その言葉に、菅原麗の胸の中に溜まっていた鬱憤がすっと軽くなった。「あなたに迷惑がかからなければいいんだけど」何しろ田中葵は、ここ何年も裏でこそこそと手を回すことをやめた試しがないのだ。斉藤沙也加はまるで気にも留めていなかった。「どうせあの女に大それた真似なんてで
行き交う招待客たちは次々と祝いの言葉をかけ、会場は活気に満ちた華やかな雰囲気に包まれていた。だが、田中陽大の腕に手を添えた田中葵が会場に姿を現した瞬間、場の空気は一変した。「あれって、あの田中さんの愛人じゃなかった?なんでここに?」誰とも知れぬ声が人混みの中から漏れ、斉藤沙也加(さいとう さやか)の視線を引いた。その光景に、彼女の目が自然と冷ややかに細まった。冷笑と共に、遠慮なく皮肉を吐き捨てた。「こういう場にまで、愛人が来るなんて。田中陽大も、もう完全に甘やかしてるわね」菅原麗の古くからの友人である彼女にとって、田中陽大のやり方は到底見過ごせるものではなかった。「聞いてないの?」隣の客が彼女の袖をそっと引き、噂好きの口調で囁いた。「田中さん、あの人を正式に妻にするつもりらしいわよ」斉藤沙也加は目を見開いた。「本気なの?」「前はただの噂だと思ってたけど、今日の様子を見ると、案外、本当かもね」斉藤沙也加は内心で菅原麗に同情を抱きながら、田中葵の方へと視線を投げ、冷たく言い放った。「結局、愛人は愛人よ。たとえ正式な妻になったところで、一度ついたレッテルは一生消えないわ」田中陽大は最初、田中葵を連れていくつもりはなかった。だが、出かける直前に彼女が勝手に隣へと並び立ち、不機嫌そうに呟いた。「今日は仁の婚約の日だぞ。お前が来てどうするつもりだ」田中葵は微笑みを浮かべ、あくまで年長者として振る舞った。「仁の晴れの日だもの。私だって祝ってあげたいじゃない。少しでも縁起をもらえたら嬉しいし」田中陽大は眉間にわずかな皺を寄せた。「もうだいぶお腹も大きいんだ。家で大人しく休んでろ、こんな場に無理して来るな」「大丈夫よ、陽大。希美が一緒にいてくれるし、無理はしないから」田中葵の言葉で、田中陽大はようやくソファに腰掛けている朱欒希美の姿に気づいた。若い者たちの手前、田中葵にあまり恥をかかせるわけにもいかず、彼は渋々ながら同行を許した。「今日は来客が多い。三井家と田中家の親族ばかりだ。俺は挨拶して回るから、お前は適当に座って休んでろ」田中陽大は小声でそう言ったが、傍目にはまるで親密なやり取りに見えた。田中葵は見上げるようにして彼を見つめ、きらきらとした瞳で微笑んだ。「ええ、心配しないで。あなたはあなたで、やることやって」そう言
まるで本物と見分けがつかない?「陸社長、あなたは一体何をしようとしてるんですか?」愛甲咲茉の目には戸惑いが浮かび、声は思わず震えていた。田中陸は唇の端を吊り上げ、妖しく笑った。まるで夜空を裂く不気味な流星のように、その笑みは愛甲咲茉の背筋をひやりとさせた。照明の下、彼の瞳は底知れぬブラックホールのように深く吸い込まれるようだった。田中陸はゆるりと身を翻し、そばに置かれていたボトルを手に取ると、流れるような動きでグラスに酒を注ぎ、一杯を愛甲咲茉に差し出した。「明日って、どんな日か分かるか?」明日?愛甲咲茉は無意識に唇を噛み、ほんの一瞬考え込んだあと、田中陸の言わんとすることを理解した。「明日は六日ですね。田中さんと三井さんの婚約の日です」そう言って、愛甲咲茉は静かに答えた。田中陸は手首に力を入れ、掌の中のグラスをくるりと回した。グラスの中の酒が、波紋のようにゆるやかに渦を巻いた。彼は目を細め、口元にうっすらと笑みを浮かべた。まるで、すべてを掌中に収めているかのように。「長かったな。やっと、この日が来た……」愛甲咲茉はその意図を察し、おそるおそる口を開いた。「陸社長、まさかこの婚約を壊すつもりじゃ?」田中陸は返事をせず、ただ手にしたグラスをじっと見つめていた。目の奥には、かすかな虚ろさが漂っていた。その沈黙こそが、すべてを物語っていた。愛甲咲茉の胸の奥に、抑えきれない喜びがふと浮かんだ。もし本当にこの婚約が壊れるなら、彼女にとって悪い話ではない。田中陸は手首を持ち上げ、グラスの酒を一気に飲み干すと、低く口を開いた。「三井家と田中家の縁組は大きな話だ。たとえ婚約とはいえ、会場にはそれなりの人間が集まる。だからこそ、動きやすい」愛甲咲茉はそれ以上は聞かず、素直に問いかけた。「私に何を?」田中陸は手を返すようにして、持っていたグラスを放り投げた。「パリン」という音と共に、床に砕け散った。彼は目線を上げ、愛甲咲茉と視線を交わす。「明日、あなたには重要な役がある。それ以外は口を出さなくていい」一拍置いてから、こう付け加えた。「後で足がつくようなこともない」旧暦の六日、結婚に縁起が良いとされる日だった。三井鈴と田中仁の婚約式は、田中グループが所有するホテルで執り行われた。あくまで婚約だからと